■ 謙譲/Humility

あちこちを散歩するのが好きだ。
素敵な家や小さなお店を眺めたり、花を見つけたり・・・あてもなく、ふらふらと。
その日も気が向くまま、馬で走っていたら、海にでて、そのまま海沿いを走っていた。ふと、海へつきだした岬に、ユラリと半透明の影が揺れているのに気がついて、近寄ってみた。
そこには、馬の幽霊が一匹、海を向いてたたずんでいた。
ときたま、ヒヒーンと鳴く。海へむかって蹄をあげるが、そこから動かない。
私は馬から降りて、そばに歩みよる。
海からの風がすこし冷たくて、湿った草が足にまとわりつく。

この世界では、長いことペットとして一緒にいた生き物たちは、死んでも幽霊となり、この世にとどまる。
そして獣医の技術の高い者の手で、手当てをすれば、生き返ることができる。
ただし生き返るにはペットの主人の意思が必要で、主人が願わなければ、生き返ることはできない・・・。
私は、昔、かわいがっていたラマを死なせたのが悲しくて、獣医の道を選んだ。
そして獣医の技術をすべてマスターした。
主人さえいれば・・・この幽霊を蘇生できるのに。
ここに来るまでに誰にも出会わなかった。
でも、もしかしたら、主人が戻ってくるかもしれない。そんなことを考えながら、横に座る。
そういえば近くに迷宮の入り口がある。迷宮で敗退して・・・ここにいる理由を、いろいろと考えてみる。

・・・一時間ほどたっただろうか。主人は戻ってこなかった。
時が過ぎれば、天に召されるはずなのに、神様の気まぐれなのか・・・変わらず馬の幽霊は海を眺めていた。ときたま鳴きながら。
言葉がもし同じなら、主人の名前が聞こえたのかもしれない。
帰ってこない主人を思って、待って・・・あてもなく。

私は立ち上がって、馬にまたがって、走り出す。
ねぇ、忘れられなくて、待ちつづけているから、あの場所から、どこにも行けないの?


それからしばらくして、またあの岬へ行ってみた。
変わらずに馬の幽霊はたたずんでいた。海に向かって、ときたま鳴きながら。
無駄とわかっていても、手当てをしてみる・・・でも、生き返ることはなくて、私、もうペットで悲しいとか、やるせないことなんてないと思っていた。
だけど、今、無力なのは確かで。
蘇生して「ありがとう」って、笑ってもらえること。
あたりまえだと思っていた。
本当は私の手のひらの、小さな奇跡だったんだと、気づいた。
私、がんばって、いろんなことができるようになったから。
もう、無力な自分に泣きたくなることなんて、ないと思っていたのに。


「クリスマスの準備にどうかね?鳥の丸焼きに、ケーキ!わしが腕をふるった料理じゃ」
銀行に預金にでかけたら、行商がいた。おいしそうなにおいに、すでにお客が何人かいた。覗いてみると、机の上にサンプルが並べられていた。
「おや、お嬢さん。かわいいセットもありますぞ?」とエプロンをつけたおばあさんが箱をだして、開けた。
なかには、焼かれた肉や野菜、フルーツが、お皿のうえに綺麗に並べられていた。
・・・ふと。あの馬の幽霊のことを思い出した。
あの岬にまだ、いるのだろうか。
「これ、ください」
持っていってあげようと思った。
でもどうせ海しか見ていないし、私の自己満足なのだけど。
「ありがとうございます」と、渡された箱を大事に抱えて、岬まで走る。
待っていてくれるわけでもないし、本当に、ただの私の自己満足なのだけど、なんでだろう。ちょっとドキドキする。
そういえば、誰かに贈り物をすることなんて、久々・・・。

息を切らして、岬の近くに着いた。頬が熱くて、おでこの汗をぬぐう。
馬から降りて、歩いて・・・岬についたけど。
誰もいなかった。
あれから時間もたったし、きっと天へ帰ったのかな。よかったと思うのに、なんでだろう・・・と、そのとき。

・・・パシャン。

かすかな水の音がした。あわてて海辺に駆け寄った。
・・・パシャ、パシャンっ!と派手な音と水飛沫とともに、イルカが跳ね上がった。クルンと回転して、海へ、パシャンと音をたててもぐる。
あの、馬の幽霊がいたちょうど前の海を、イルカが泳いでいた。
「クルッルルルー」とイルカが鳴いて、また跳ね上がって回転して、もぐった。
今まで、ここで、この周辺でもイルカを見たことなんてなかった。
馬の幽霊がいたころも・・・もしかして。
「クーン」イルカが跳ねて、鳴いて、泳ぎだした。
あの、馬の幽霊が見ていた方向に・・・わかんないけど、もしかして、もしかしたら、あの馬の幽霊が、イルカになったの・・・?
だからここにいて。もしかして、お別れをいってくれたのかな・・・?

あのころ、海を見てたのは、ちゃんと、海を見ていたんだね。
いなくなった主人のことを考えていたわけじゃなくて、ちゃんと目の前を見ていたんだね。
海の向こうにいってみたくて、イルカになったの・・・?

気づかないうちに、ボロボロとあふれた涙をぬぐう。
すると、後ろから頭をこずかれた。
振り向くと「ブルル」と馬がうなってた。
手綱をたぐって、馬の頭をなでる。
もしかしたら、私のこと、心配してくれたのかな。
イルカは、遠くに泳いでいってしまって、もう見えない。
馬にだきついて、ぬくもりがただ、暖かくて、海を眺めていた。
いつもずっと、あたりまえだと思っていたことが、とても嬉しかった。
だから大丈夫。私もちゃんと、目の前を見て歩いていける。